2011年5月1日日曜日

規制科学(regulatory science)における基準値の設定(地域保健論)補足

 食品保健において、時として「基準値をこえる農薬が野菜から検出され、当該食品は回収された。」しかし「食品衛生当局は摂取したとしても、直ちに健康に影響を与えるとは考えられない。」という報道を
時としてみかける。今回の原発事故にさいしても、類似の表現が政府によってなされ国民の不安の材料となっている、といわれる。

食品、大気、水に含まれる「有害物質」について、基準値が設定され、それに基づいて法規制がおこなわれる。この基準値をできるだけ科学的にきめる方法論が規制科学とよばれている。

基準値は通常地域で生活している老若男女を対象としてきめられている。実際問題有害性を人間で測定するようなことは行われない。農薬や食品添加物のような化学物質では、動物実験により急性毒性、慢性毒性が出現する最小量、もしくは影響が見られない最大量の値の100分の一にきめる。
このモデルは有閾値モデルといわれている。100分の一の所以は、種族差(実験動物と人間の影響のうけやすさ)を十分の一で担保し、個体差を十分の一で確保し、よって百分の一で大丈夫だろうという考えである。さらに年令によってさらに十分の一の幅をとり、都合千分の一を用いる考えもある。

しかしながら、百分の一を用いる従来の方法で急性毒性、慢性毒性について基準値以下で現実に健康障害が起こったという報告はない。もちろんそれは通常の摂取量を前提にしている。

しかし、こと発がん性、遺伝毒性、ないし催奇形性については一定の量以下では全く健康影響がないという上記の有しきい値モデルではなく、微量の摂取、暴露であってもそれなりの、それに応じた(線形モデルで予測できるような)影響、例えば、発がんが見られるであろうという仮説にたった、モデルつまり「無しきい値」モデルを用いることになっている。

発がん性のメカニズムとしては、DNAの損傷が想定されておりDNAには修復力が認められることから、閾値があると考えてもよいではないかという考えをもつ研究者もいる。しかし規制化学は純粋に
自然科学というより社会性をもつものであり、しきい値がない、(微量でもそれなりに影響がある)

と想定してモデルを組み立てたほうが良いと考えられている。その基準としては、1年間その量を摂取または暴露されて、1000人の人口集団から1人のがん発生の増加すると考えられる程度とか

百万人の人口集団が持続的に65年の暴露、摂取で1人のががん発生の増加のレベルと推定される程度などが用いられる。当然こういったコーホート的なリスクの増加は疫学的に実証困難である。

しかし我々は客観的指標である「安全」を社会にの主観である「安心」に置き換えるためにはこのような操作をルールとしてきたのである。それは、ある特定の道路区間における制限速度に例えることもできよう。

またこのような公衆衛生学・生命科学における安全率の感覚は、例えば工学系の安全率の考えとは異なることを知らなければならない。エンジニアにとって100倍の安全率を用いて、土木建築や

機器を設計することは、過大な要求であり不可能もしくは著しく不経済であると考える。
工学における安全率は2-3倍、たかだか10倍であろう。

工学者は医学薬学などの背景をもつ規制科学者は、基準とすべきデーターに自信がないため、過大な安全率を要求する」と考える。工学の世界ではほぼ事故率が同じと考えられる試作品をつくり

実験に供することができる。しかし人間の健康のモデル動物はない。工学的世界はより決定論的
であり生命科学はより確率論的である。原子炉工学者はベクレルの推定は可能だろうし、

焦眉の課題である核暴走を防ぐという任務においては極めて重要であるとしても、生体影響ーつまりシーベルトの世界ではかえってその常識が国家百年の計をおろそかにするかもしれない。

付け加えるならば労働安全衛生法の基準は上記に比べ甘い。それは業務遂行が可能なレベルであって。そのなかで健康影響を最小限にする、労働者に対しては十分な教育が前提となり危険

な労働は強制されない。健康管理は十分行われ離職後もそれは続けられる。危険に応じた(いささかあいまいだが)危険手当が支給される。そういった基準と一般住民の受忍レベルは混同されるべきではない。

自衛官、警察官、消防隊員といった「身命を顧みない」規範が存在する職種であっても、学者や官僚の思いつき的な命令を実行するわけにはゆくまい。いわゆる公安職種が無気力や自分たちの生命健康が社稷のためでなく政治の具とされているというという思いをもったなら「元気な日本」は

絶望となる。




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